日本の歪んだ性を考える
この国の女尊男卑的な性教育がもたらす歪んだ男女の性意識を考察します。
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◆私が初めて女性器を知った日
私が初めて女性器がどうなってるか知った日
まずこの問いかけ。女性にはありえない事というのがお分かりだろうか。もちろん、異性の性器、という意味でだが。
女の子は物心ついた時から男性の性器がどうなってるか知ってる。仮に父親のいない子でも、男の子の性器は子供の絵本などでも無造作に描かれているので...そのほとんどが女の手によるものだが...男性の性器に興味がわけば簡単に知る事ができる。
ところが男の子はそうはいかない。母親のなんてまず見えないし、年の近い一緒にお風呂に入る女きょうだいでもいない限り女の性器がどうなってるか知る機会はほどんどない。あらゆる印刷物でも女の性器は一切描かれないからだ。
性教育の教材ですら、特に女の手によるものでは女性器だけは露骨に隠す。変な国だ。この国では女性器は女の手によって完全に社会から隠ぺいされているのだ。一般で目にする事のできる女性器らしきものといったら土偶の割れ目ぐらいだ。
0対100の完全な不公平。それがこの国の男女の、特に男性の性意識を歪ませている。これについては別の機会に書く。
人類の存続に最も重要な性の問題。平たく言えば異性の性器への渇望という、そのスタート地点がこの国では男女で全く違う。 男は女のそれに対して100歩遅れているのだ。その差を埋めるのは並大抵ではない。
100歩進んだ所からスタートしたはずの女ですら男の性器を見たがるのに、子供を産んでも男の子の性器を見たがるのに、男が、100歩遅れた所からスタートした男が女の性器を見たがっても全く不思議じゃないだろう。
「異性の股渇望指数」の男女較差が、この国では決定的に大きい。
核家族で家に女が母だけ、という家庭ではそこの男の子は大抵は女の性器がどうなっているか知らないまま大きくなる。私もそうだった。
ちなみに私は母親の性器を一度も見た事がない。自分が出てきたはずの所なのに、それを知らないのだ。 これから先も、見る時が来るのだろうか。やがて来る介護の時か。あまり想像したくない。
ついでに私の幼い頃の話をすると、近所の女の子と仲良しでよく遊んだものだがお医者さんごっこなんてした事はなかった。
ある時、一緒に遊んでいる途中で彼女が庭の片隅でおしっこをする事があった。でもさすがにじっと見るわけにはいかず、パンツをおろしたその細長いお尻の割れ目と地面にしみ込んでいく彼女のおしっこをチラチラと盗み見する程度だった。
そんな私が小学校に上がる。お風呂は家でしか入らないから銭湯などで裸の女の子と遭遇する機会はまずない。だから女の性器は、というより女の股にはおしっこが出る穴が一つあいているだけなんだろうな、なんて漠然と思っていた。だってそれまで見た絵本やらマンガ、イラストの類では女の股には何もついていない、としか描かれていなかったからだ。ところがだ。それは全く違うという事がわかる事件が起こった。
女にも性器は「ついていた」!
女の性器。昔は、というか今でも高年代の男性は「ついていない」と表現するもの。これもこの国の昔からの歪んだ性教育の産物だろう。
小学生の頃の私も、確かに尿道口だけなら「ついていない」というものなのかな、なんて思っていた。でもたまに、近所のバアちゃん、ポロッと「おまんちょ」って言ってたよな。名前があるからにはやはり穴だけじゃ変だな、なんて私は漠然と思っていた。
そこへ、あの事件が起こったのだ。(つづく)
アップロード : 2019/08/16